神経を引っ張り引っ張り引っ張り、そしてたまに思い切り指を離してその弛緩に身を任せる

今日は類を見ない生産的な1日だった。朝は八時半に起きて母親を駅まで送って行った。帰ってきて九時半にまた妹を駅へ送り、自分は十時に家を出て申請していたパスポートをパスポートセンターまで受け取りに行った。

昼には珈琲館に入り、課題を三つ終わらせ、その他いろいろな作業を終わらせて夕方に一度家へ帰った。家で夕飯を食べてから、駅前のジムへいき、背中と二頭筋のトレーニングをした。また帰ってきて夜食を食べ、今は布団に寝転がって日記を書いている。

これだけ生産的に1日を過ごせたことを私は誇りに思う。ただ同時にささやかな不安も私の中に浮かび上がっている。それは一日中頭の片隅にあったし、無視をすることもできたのだが、あえてここに書いてみる。私が恐れているのは「揺り戻し」である。

そもそも生産的に1日を過ごす目的とはなんなのだろうか。生活の生産性を高めることができる。それは即ち、より多くの知識を脳みそに蓄えることであるし、今日課題を終わらせた分明日からバイトに専念ができるので、お金を貯めることでもある。では沢山知識を蓄えて、お金を貯めて、一体何になると言うんだろう。これに関して私は答えを持っていない。しかし、大切なのは答えを得ることではない。肝心なのは適切な問いを見つけることだ。私が今提起した問いはこうだ。「生産的な生活を送ることの意味はなんだろうか」。でもおそらくこれは正しい問いではない。少なくともそんな問いを抱えて生きていくことは、脚に重りをつけてマラソンを走るようなものだ。

頑張ることは大切だ。頑張れば頑張るほど、功利的な観点では多くのものを得ることができる。そして功利的な観点を持って生きることは悪いことではない。我々はみんな多かれ少なかれ功利主義を生活の中心に持って生きている。それは、問いを投げる対象というより、受け入れるものではないかと私は思う。生きることに抜き差しならず関わってくる功利主義を受け入れること。だって、沢山お金があったら嬉しいじゃないか。余暇を増やせれば嬉しいじゃないか。勉学があれば人生は豊かになる。私はそう思う。

ただ時には功利主義を忘れて、身体をそれが求めるがままに発散させてあげることも大切だと思うのだ。例えば高校生の時、受験を控えて僕たちはみんな険しい顔をして机に向かっていた。一日7時間も授業を受けて、家に帰っても参考書を開いて予習と復習に励んだ。でも授業の間の十分、昼休みの一時間は友達とふざけ合って時を忘れた。僕たちの生活はそうやって完結していた。神経を引っ張り引っ張り引っ張り、そしてたまに思い切り指を離してその弛緩に身を任せる。私の身の回りで幸福そうに生きている人を見てもそうだ。彼らは日々真面目に働いて、たまの休みには自分のしたいことをしてはっちゃける。はっちゃけ方は一つではないし、それはそれぞれ違う。でも、そういった人たちはみんなしっかり折に触れて伸び切った神経を弛緩させるのだ。

今の俺にはそういった捌け口があるだろうか。わからない。たまに自分の神経を引っ張りすぎて、気づいた時には指がべったりとくっついてしまって、その弛ませ方がわからなくなる。だから今日みたくそれなりに神経を引っ張って功利的で生産的な1日を過ごせた日には、ただ自分は疲弊してしまって、疲弊は溜まり俺はまた数日ブルーな気分になってしまうんじゃないかと怖くなるのだ。揺り戻し。そういった時、私が意味するのはそういうことだ。