あなたは素晴らしい人間である

彼女に振られてから二週間が経とうとしている。もちろん私の日記をここまで全て読んでいる人間はいないだろうが、ここまでの足跡(精神の足跡?)は過去の日記を追っていけば、極めて断片的にではあるが記されている。今私はおそらくある種のトランスフォーメーションの最中にありーそれが前進であるのか後退であるのかは分からないが、そんな中で彼女との記憶の中で唯一私の中を離れないものがある。

私は元来自己懲罰的で自虐的な人間である。自分自身のことを労わるよりも、自らを痛めつけ、そして孤独の端に追いやることの方を得意としており、不幸にもそういった習性はそれなりに強く私の人間性の中に定着している。私の不幸の大部分はそこからきているといっても過言ではないし、今だってそういった部分は変わらず私の中にある。私が彼女(元彼女と言うべきなのだろうが、その言葉を自分から使うにはまだ少し傷は生々しい)と付き合い始めて、かけられた言葉の中で最も心に深く到達したものは、「あなたは素晴らしい人間である」という言葉だ。「あなたは善人で、可愛らしくて、私はあなたが幸福になることだけを祈っている」、彼女はそういった言葉を絶えず私にかけてくれた。私に元気がない時も、はたまた元気な時も。その言葉は間違いなく私に大きな跳躍を与えてくれた。私は善い人間なのか、愛するに足る人間であるのか、仮にそうだとしてそこにはどのような根拠が必要とされるのか、長ったらしく私の脳内を旋回し続ける不毛な問いの連続を、彼女の一言はひとっ飛びに越えて私の心に到達した。そこには弁証の必要などなく、あなたはいわばアプリオリに素敵な人間なのだと。私に残されているのはその主題を飲み込んで、それを自分の身体と生活の中に実践を通して馴染ませていくことだけなのだ。彼女から私は絶え間なくそういうメッセージを受け取った。

今その言葉たちが私にどんな影響を残し続けているのか、果たしてそれらは私の中にどれだけ残り続けるのか、私にはよく分からない。ともすれば、その言葉たちは徐々に私の記憶の周縁へと追いやられ続け、いずれ私はそれを殆ど思い出さなくなってしまうのかもしれない。それはでも悲観的になりすぎているのかもしれない。最後には、その言葉たちをどう自分の中に組み込んでいくのかは、おそらく私の意思次第なのだろう。それを信じられるぐらいには、私は理想主義的でもある。

今も私の中で問いは絶えない。外界と自分の内部との接地面をうまく見出すこともできない。精神と言葉、想いと行動との理想的な関係性のあり方も、はっきり言ってまだよく分からない。でも少しづつ私はそれを学んでいかなければならないし、さもなくば私は死ぬだけのことだ。肉体の死、精神の死、結果がそのどちらであるにせよ。自分が寸分たりとも前進していないと考えることも、逆説的なナルシシズムである。私はやはり少しづつ前進しているし、一度しっかりと獲得したものは簡単には失われない。私は私なりのやり方で歯を食いしばって、変わらず動き続けなければならない。頭を動かすのに疲れれば体を動かし、体が疲れれば頭を動かす。どちらもうまく動き出さない時には、悠々と自転と公転を続ける地球の上に体を投げ出して、物事の刻々と変わりゆく有様を観察する。私はそのやり方をここ一年ぐらいで急速に身につけたのだ。そしていずれはその言葉の意味をはっきりと自分で見出してみたい。

「あなたは素晴らしい人間である」